人のやったことは まだ人のやれることの 百分の一に過ぎない。豊田佐吉
☆彡今日の贈る言葉
人のやったことは
まだ人のやれることの
百分の一に過ぎない。
豊田佐吉は無類の発明好きだったらしい。
「教育も金もないので、発明で社会に役立とう」と決心したのが18歳。
以降次々と織機関連の重要な発明をしていく。
子の名言、「人」と言わずに「自分と言ってみてはどうだろう。」
失敗しただの、年を取っただのと言って自分に言い訳せずに、
まだ今の10倍100倍できると自らを鼓舞してみよう。
西東社編 元気が出る言葉366日より一部抜粋
★豊田佐吉
豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の発明家、実業家。豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)、無停止杼換式自動織機(G型自動織機)をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件の発明をした。
豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業、トヨタグループの創始者である。
思想
二宮尊徳が実践したことを、継承者が広めたものが報徳思想である。報徳思想は明治期になり、報徳社が各地に組織されて大きく広まった。特に静岡県では岡田良一郎により、報徳社が県下に多く開設された。
佐吉が生まれた湖西地区や湖北地区おいても、石原貞藏や袴田孫兵衛という有力者によって報徳社がつくられた。報徳思想では、至誠・勤労・分度・推譲を行うことが重要とされた。
これは経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く考え方であった。豊田家においても父の伊吉は熱心に報徳思想を信じて実践した。佐吉自身も自らの規範として報徳思想を行動の原点としていた。
佐吉がもうひとつの心の拠り所としたのが日蓮宗である。代々の豊田家の菩提寺は日蓮宗日什門流八別格本山のひとつである妙立寺であった。そのため、小さい頃から日蓮宗は身近な存在であった。妙立寺には父の伊吉が寄附したことを記した大きな寄進板が掲げられている。日蓮宗の持っている現世救済の精神、あるいは国家主義的な教えを佐吉は常に心の中に持っていたと考えられる。
豊田利三郎、豊田喜一郎らが佐吉の遺訓としてまとめ、没後6年目の命日に発表されたのが「豊田綱領」である
生誕 慶応3年2月14日(1867年3月19日) 日本
遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市)
死没 1930年10月30日(63歳没)名古屋市覚王山自邸
職業 発明家・実業家
叙勲・栄誉
藍綬褒章を受章(1912年(明治45年)5月18日[48])
大正天皇御駐輩所名古屋離宮に御召出し(1913年(大正2年)11月、陸軍特別大演習)
藍綬褒章(飾版)2度目受賞(1924年(大正13年)2月)
恩賜記念賞を受賞(帝国発明協会)(1926年(大正15年))
昭和天皇に名古屋離宮にて単独拝謁(1927年(昭和2年)11月、大演習)
勲三等瑞宝章を受章(1927年(昭和2年)11月12日)
従五位に叙せられる(1930年(昭和5年)11月4日)